私の"就活”

 もうそれは、50年も前のことですが私が静岡大学の夜間の短期大学電気科1年に在籍していた時、当時廣澤の現在の市立高校の横にあった、静大の”電視研究所”というところで研究室の補助員を募集している掲示があり応募しました。仕事の内容は電子顕微鏡の操作員と半導体の基礎物理の実験のお手伝いということでした。私は将来の就職のため、電子顕微鏡の操作や構造を覚えておけば、役に立つだろうと考えもあり、当時高卒で初任給は8千円ぐらいのとき、月々1千円の手当でしたが、務めさせていただくことにしました。
 こうして昼間は研究室夜は大学という生活が始まりました。研究室の名前は”電子物理研究室”と言い
最初に当時助教授で有った成田信一郎先生のもとで、電子顕微鏡のお守りをしながら、光半導体の基礎物性の測定のお手伝いをさせていただきました。
 最初に手掛けたのが酸化鉛(Pbo-S)という赤外線に感度を有するといわれる物質が本当に光を当てると電流が流れるかどうかの実験でした。この試料を作るためガスバーナーを使ったガラス細工を火傷しながらも習得し、真空管の中に試料を作る仕事をしました。しかし作った資料に光を当てても電流計に何の反応もなく、いたずらに時が過ぎました。ある日先生が留守の折、理化学事典を読み返し、所定の資料とは色がずれていることを知り、自分流にこれは酸素が足りないのだと判断して、小さな電気炉を石英管にアスベストを巻き(毒性を考えれば今では考えられない)これにニクロム線を巻いて手作りし、真空管に空気を入れ加熱しました。そうすると色がくすんだ黄色からきれいなだいだい色に変わりました。これを再度排気して真空管とし、暗室に行って暗い所で懐中電灯を当てたところ、電流計の針が振り切れるほどの光電流が流れ、からだ中の毛穴が総毛立つ思いがしました。
 翌日出張から帰られた先生に報告し早速応用物理学会で発表することんになり、その特性の測定やデーター処理に追われました。(のちにこの技術は浜松ホトニクスに移管され赤外撮像管として30年もの長い寿命を持った製品になりました)このことがきっかけで半導体というものに強い関心がわき理論と実際が一致するすごさを味わいました。補助員という立場にこだわらずその後研究室の卒研生と一緒に勉強会(ゼミ)に参加させていただき、最後には教授たちの勉強会にまで参加させていただきました。その後酸化亜鉛基礎物性をやるための結晶づくりとか、その特性を計測する装置の自作による開発とかをやらせていただき、多くの体験をさせていただきました。
 卒業後もまだ自分に納得できる知識ができていないことを感じ、1年”研究生科程”という大学の制度を使い、そのまま研究に従事させていただきました。合計3年お世話になりました。
 その後富士通から当時不足していた半導体技術者の紹介の要請が成田先生のところにあり、小生が推薦され、入社試験は実質渋谷でのフルコースのフランス料理接待として行われ。後は形だけの面接で入社しました。
 入社後、新人にかかわらずいきなりサーミスター(温度センサー)班の班長に任命され(私が入社直前に前任者が退職した)多くの技術的問題を抱えていましたが、1年ぐらいでほぼ全部の問題をかたずけることができました。
 これは電視研究所での実験と、理論、幅広い分析技術などの知見が大きく役に立ったものであり、通常の大学学部ではとても経験できないことを教えていただいたことによると感謝しています。
 その後様子を聞きに来社された先生に当時の富士通の部長は”予想以上の働き”と感謝され大いに面目を施したといわれました。その後さまざまな仕事をさせていただきましたが、比較的短期間に新しい仕事の本質を理解できたのはこの経験があったからだと今つくづく思います。
 いま”就活”に奔走しているみなさん、いたずらに面接でのテクニックを学ぶことに浮身をやつし、何十何百という企業訪問をすることに時間を費やすことは後に何も力として残りません。
 それより現在の科学技術動向、ビジネスモデルの変化の方向を見定めた、先端性で力のある研究室にもぐりこみ、企業側から三顧の礼を尽くして迎えられるような人材になるのも”就活”としての一つの方法であり、あたら大事な勉強の時を無意味な努力で潰さないことを祈りたいと思います。


同じカテゴリー(ひでおさん 独り言評論)の記事
阿字観 瞑想
阿字観 瞑想(2012-03-10 14:38)

Facebookに参入!
Facebookに参入!(2011-04-27 10:53)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

写真一覧をみる

削除
私の"就活”
    コメント(0)