徒然なる宗教観13真言宗(密教)第一章

徒然なる宗教観13真言宗(密教)第一章


第一章
 このタイトル(徒然なる宗教観)で最後に投稿したのは、2016年ですから、もう6年の時が流れました。当時私が目指していた宗教と科学の融合という方向性に対して、一応の到達点(出発点)としての量子力学的見地からの書物を読んで、自分の考えてきたことが、それほどいい加減なものではなかったという安堵感から、あとは、関心のある学者・宗教者のご尽力により推進されることを期待して、これを自分でやっていくには荷が重すぎるので、ひとまずの結論として、この問題との関わりをを終わろうとしました。
 本年私は85歳となり、私の死後の居場所をまじめに考えなければいけないと思い始めたとき、今まで仏教諸宗派やキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、神道、道教など、さまざまな宗教にかかわる本を読み漁った結果、心に残っていたのが空海が完成させたといわれる密教(真言宗)でした。
 しかし、今更修行してこの道を究めるなどはありえないと思い、家に伝わる浄土真宗でもよいかと考えるようになっていました。
ところが最近になって突然、せっかくいろいろな宗教について10年もかけて本を読み漁ってみて、心に残り、これなら納得できそうだと思った、密教について、少し真剣に考えてみたいという気持ちになった。
 自意識の強い私にとって、何かに一方的に帰依し、それに頼るということはあまり潔しとしないものがあります。ことに私の家が檀家となっている浄土真宗は本尊を阿弥陀如来とし、”南無阿弥陀仏”と唱えれば西方浄土に行けるという、よく言えば単純で分かりやすいのですが、一方では、何か本質を見ないまま自分をごまかすようなうらみがあります。
 密教について言えば始めは、語感から何となく邪教的な印象があり、あまり真面目に考える気がしていませんでしたが、その中心的教義が”即身成仏”ということであり、これは自己と仏が融合して自分自身が仏になるということであり、私としては自分自身を拝めるということに痛く満足を覚えたのでありました。即身成仏というと生きたまま庵で座禅を組み食物も水もたって死ぬということと誤解していました。この場合は、即身仏というようです。これは密教とは関係がないようです。
 そこで今5,6冊の空海や密教に関する本を買い込み、もう少し深く勉強しようと考えて、毎早朝の読書に励んでいます。ただ本を読んである程度分かっても、それで直ちに即身成仏できるわけでもなく、自動車の運転が本を読んだだけでできるわけがないように、それなりの修行(教義を体にしみこませる)が必要であることは承知しています。
 


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