徒然なる宗教観5(般若心経その3)諸法空相

 般若心経を読んでいくと、やたらと〝無””空”という文字が目立つ。そして”すべては空”ということを表す言葉として”諸法空相”という言葉が出てくる。ところがお釈迦さまが最後に作られたという法華経というお経があって、この法華経には”諸法実相”という言葉が基本となっていて、般若心経と全く逆のことを言っているように見える。つまりすべてのことは、実態を持った真実であるという。この一見矛盾した見方をどう解釈するのかここが仏教を解くカギのように思える。

 般若心経を読んでいくと、中ほどに”無無明亦無無明尽”(むむみょうやくむむみょうじん)”無老死亦無老死尽”(むろうしやくむろうしじん)と続いている。これは”空”を悟ると、無明が自分の心からなくなるけれども、無明はなくなることはないという意味です。無明というのは〝無知”つまり執着心に阻まれてほんとの自分の姿が見えない状態ということです。

 もう一つの方は、空を悟れば、老いて死ぬことは無くなる、けれども老いて死ぬという現実はなくならない。と言うほどのことです。

 つまり、心を”空”の状態に構えてしまうと心からは〝無明”(執着心)がなくなるけれども、実際の人間は執着心を持っていて、現実の体から無明は消えることはない。また”空”の状態では”老いて死ぬ”ことは心の中から消えるが、現実は”老いて死ぬ”ことはなくならないという。

 したがって、般若心経の方では”空”を実現した状態を言っており、法華経の方では現実世界のことを言っていて、両者に矛盾は無いのです。自分が執着している時は、そういう自分をほったらかすと、”空”がやってくるような気もします。

 この辺のコントロールが自分に与えられた生きがいのような気がします。つらいこと、苦しいことを全部周囲の人や社会のせいにしていると、いつの間にか自分を失います。自分は自分で運転していかなければならないし、それが”人生”のような気がしています。

 ”諸法実相”という言葉は、なにか凡人にとって温かく”すべてを認めてくれ、周りの人がみな”仲間”に思えてきます。この法華経を基本としているのが〝日蓮宗”であります。
 


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