浜フィル物語(2)

浜フィル物語(2)
第3章 さらなる演奏レベルの向上
 10年ぐらい前のことだと思いますが、毎年、年末に”第九”の合唱を続けているフロイデ合唱団から、彼らの創立20周年記念として企画された、モーツアルトの”レクレエム”(鎮魂ミサ曲)のオーケストラを依頼されたことがあり、フロイデに認められるチャンスと捉え力を込めた演奏を行った。双方に力がこもり、鎮魂ミサ曲としては、かなり力強い明るい演奏となりましたが、会場からは大きな拍手をいただき、フロイデの皆さんも満足していただけたと感じました。

 その後の打ち上げパーティーにご招待を受け、主賓席に座らせていただき、合唱団の指導者(斉藤氏)の隣席に座らせていただいた。その折、斉藤氏に”浜フィルの演奏はいかがでしたかとお尋ねしたところ”弦の方はそこそこのレベルになっていると思うが、管の方はもう少し安定感が欲しい”という評価をいただいた。これは私の感じていたことと同じであったので、ある意味納得できる評価でした。

 弦の方は、コンサートマスターを私の理事長就任とほぼ同じ頃から引き受けていただいている、森下幸路氏の熱心なリードにより年々そのレベルを上げていたが、管の方はその種類の多さからも主軸となる方が見当たらず、それぞれが、一応一人前という自信を持っているかのように思えた。
 このことをその次のコンサートのリハーサル前に、団員にお話をしたところ、猛反発を受け、それなら降りるという声も上がって、狼狽した。私としては、励まして”第九”の演奏を勝ち取ろうという気持ちであったが、逆効果であった。この点については、事後団員に釈明の手紙を送り、なんとか納得していただいた。

 演奏者というのはやはり、それなりのプライドを持って演奏しているので、この点を注意して接しないとトラブルが発生すると痛感しました。彼らにとっては、演奏を褒められることに最大の生きがいを感じているので、”苦言”と受け止められる表現は避けねばならないと感じた。

 一番教育に良いことは、優れた演奏者と共演させ自分の演奏との違いを肌で感じてもらうことだと思っていたところ、偶々当楽団の制作担当の理事 清水 惠士氏がかって、ウィーンに留学中同期であった、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のクラリネット主席奏者フックス氏と知己があり、浜松フィルとの共演を実現した。彼の人となりは、極めて気さくで、浜松にきたついでに、会社での出前コンサートや、個人レッスンにも応じていた。このレベルの奏者になると通常はソリストとしてのみの出演になるが、一般の楽団員に混じり一奏者としても演奏に参加してくれ、同じ楽器の演奏者に大きな刺激を与えてくれた。

 その後彼を通じ、管楽器4名のベルリンフィル演奏者にソリストとしてでなく一般の演奏者として参加をしていただいた。その結果、管楽器の人達に大きなインパクトを与え、中には、以前の非礼(反発)に対し、申し訳なかったと謝ってくれた奏者もいた。このように地方楽団の奏者が世界の一流と交流することは何よりの教育となると感じた。

 その後イタリアの一流のオペラ歌手を招き、無謀にもオペラ(ジャンニスキッキ)を上演し、これも世界の水準を肌で感じてもらう意図であったが、もちろん大赤字であったが、これらに対応できることを実証し、自信に繋がった。このような企画をする浜フィルに魅力を感じて、団員の安定化、ハイレベルの客演演奏者の参加など演奏水準の向上に寄与した。

 オペラといえば、静岡県が企画した”県民オペラ”は浜松の静岡文芸大が担当された為浜松で公演されることとなり、したがって浜フィルがオケを担当することになりました。これまで、”蝶々夫人””イリス””夕鶴”などをいずれも大成功の演奏であった。鑑賞に来られた川勝知事も幕間での会話で、”晝馬さん、もうオーケストラは出来上がっているじゃないですか!”というお言葉をいただきまた”この催し物が浜松で一回で終わるのは勿体無い、静岡、沼津などでもできたら良いのだが”という感想を述べられた。しかしオペラは大変なお金もかかり(一千万から5千万)そう簡単でなく、その後打ち切られました。

第4章 仕上げの段階
 さて、オーケストラとして演奏力は充実してきたものの、常任指揮者もなく、音楽監督もない状態では外部から見てオーケストラの体をなしていないことが最後の課題として残りました。そんなおり、森下幸路コンマスからの推薦で、ロシアのワシリー・ワルトフ氏の紹介を受け、浜松で指揮をしていただきました。この結果、大変ダイナミックで浜松気質に会う陽気で人懐っこく、また年齢も30台という若さで私としては大変気に入りました。これまで多くの若手指揮者を森下さんの紹介で体験してきましたが、帯に短し襷に長しで、何よりも日本育ちのためいわゆる教条主義(楽譜優先)の型にはまり音が踊らない恨みがありました。

 音楽はもともと、ヨーロッパ生まれで、ヨーロッパの感性を理解しないと、感動する音は出せないものです。ロシアは果たしてヨーロッパの感性を受け継いでいるのか、不安もありましたが、ニューイヤーコンサートでウインナををやってもらって安心しました。
そこで2年続けて指揮をしてもらい、常任指揮者になってもらう事を交渉し、快諾を得ました。ワルトフ氏も浜フィルを大変気に入ってくれて喜んでくれました。

 次に、やはり森下さんの紹介で、NHK交響楽団の大御所、外山雄三氏に指揮をお願いしました。氏の指導は大変厳しいものがあり、演奏者は顔を強張らせて対応していました。このため、評価は別れ、やりたくないという人と、それでも学ぶべきところがあるという人と両方ありましたが、私は氏の日本的音楽の創出への執念を高く評価し、また、御高名の効果も考え音楽監督としてのご就任を依頼しました。氏の曰く”音楽監督というのは大げさだが、ミュージックアドバイザーなら良いだろうとのお言葉をいただき、そのようにさせていただくことになりました。

 これで演奏・外観とともに、オーケストラの体をなす事になり、新たな支援団体を、有力企業にお願いできる準備ができたと考えました。
(続く)


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