福島原発で避難されている方へ

 一昨日東京電力より、福島原発の収束行程表が示されました。
それによると、今後6カ月~9カ月掛かるということで、大変長期の不安な日々を過ごされることになり、その間の過ごし方は大変なことと想像いたしております。

 私は昭和20年、終戦直前の6月18日に浜松大空襲で焼け出された時のことを思い起こしています。当時私は小学校の2年生でした。夜9時半ごろでしたか突然空襲警報のサイレンがけたたましくなり、庭の防空壕へと外に出てみると、空にはまるで大きな花火のような光るものが降ってきており、それは“焼夷弾”と呼ばれる、火のついた油爆弾群でした。日本の家屋が木と紙でできていることから、普通の爆弾より効果的に大火災を起こすための爆弾でした。

 そしてそこここで火の手が上がり、防空壕どころでなく、誰言うとなく家族全員着の身着のままで郊外に向かって逃げ出しました。途中道路わきの家々から猛烈な火が吹いていて、熱く息苦しくなり、道路際に置いてあった”防火用水”から水を手に取り頭からかぶって逃げました。やっとの思いで家並が切れたところにたどり着いた時、涼しい風が吹いて生き返った気がしました。

 それから郊外の畑を横切り、家から2キロぐらい離れた森にたどり着き家族が身を寄せながら、火の海となり天を焦がしている町のほうを見守りながら、朝になるのを待ちました。家に着いてみると家は跡形もなく燃え尽き、焼け瓦が妙に目立ちました。不思議なことにその2年前に病死した父親の位牌は、持ち出した大きな椎の木の根元ににそのまま残り、位牌の周りのものも焼けていませんでした。

 田舎の親戚が、見舞いに来てくれて、そのまま一家は当面その親戚の農家に居候すすることになりました。その後も浜松は高射砲連隊があったせいか、艦砲射撃や、グラマン(戦闘機)による機銃掃射をうけ、
 私も買出しに行った母のあとを妹と二人で追ったとき、機銃掃射に会い、あわてて普段教えられたとおり
道のわきの田んぼの蓮華草の中に飛び込み、目と耳を手で押さえ、うつ伏せになりじっとしていました。
このとき一人の人が逃げ遅れて撃たれて死にました。
 
 その後、いつまでもこの親類に居候をするわけにもいかず、同じく焼け出された叔母が手に入れた市内の
家の物置(6畳間ぐらい)を借りて床を作りござを敷いて、家族8人がごろ寝状態で半年ぐらいを過ごした後、やっと市が”2600円”とあだ名のついた、いまでいう仮設住宅(紙にタールを塗って砂ををまぶした屋根のバラック)を焼跡に有償で建てひとまず落ち着きました。

母方の祖父は土地の名士でもあり、父もエリートで有ったため戦前は比較的豊かな生活をしていましたが、父の死と戦災、それに引き続く戦後のインフレで当時としては相当な預金もあったのですが、あっという間にお金もなくなり、母はわずかに疎開してあった嫁入道具の着物などを委託販で売たり、食べ物を得るために手製の荷車を曳いて遠くまで買い出しに行って、イモやカボチャを分けてもらっていました。あまりの苦しさに浜名湖の橋を渡ったた時には身を湖に投げようかと思ったという話を聞かされました。

 そんな環境の中で、当時子供であった私達も少しでも食べるたすけをするために”ハコベ”やヨモギ」”といった食べれる野草を集め面子粥(めんこがゆ)つまりあまりにお米が少なく水分が多いため顔が映るようなお粥の中にこれらの野草を入れ少しでも腹応えのあるものにする手伝いをしました。当時配給される食物は、トウモロコシや、小麦がありこれをを石臼をひいて粉にするのも私の役でした。

 従っていつもひもじく、飢えていました。ある時あまりのひもじさに道路わきに落ちていた大根のしっぽを拾ってかじったのを未だに覚えています。子ども心に自分のあさましさを恥じたのだと思います。当時たまに普通のご飯(かたいご飯と言っていた)が出ると”今日は誰の誕生日か”という声が上がるのが普通でした。

 だれしもが先が見えない中、必死でその日その日を生きていくうちに、やがて朝鮮戦争の特需をきっかけに日本経済は成長に向かったのでした。

 当時を振り返って、いま思い出すのも嫌かと言うと、むしろ懐かしく、誰もっが苦しい中でも子ども達は空き缶一つで20人ぐらいの人間が”巡泥”という缶を牢屋のカギに見立てた遊びに興じたものでした。いまの子供が孤独なゲーム遊びののめり込む姿を見ると、私の子供のころはいつも近所の子供と、ビー玉、蝉取り、面子その他さまざまな遊びに興じある意味幸せな子ども時代だったと思います。

 どうか今回の被災者の皆様、この状況の中でいたずらに政府や、電力会社だけに頼らず、自分自身の歴史の中で出会ったことにまっすぐ向かって避難中の一日一日も皆さんの大切な人生の一日で有り、一日一日を充実させてその時の自分に”なりきって”お過ごしください。それが後になって懐かしく、別の意味での有意義なひと時で有ったと感じられるようお過ごしください。そうすれば9カ月はあっという間に過ぎると思います。御健闘を心から祈ります。
 





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この記事へのコメント
この間車の中できいた小学校の恩師の話も、

この戦時中の話も 初めてきいたよ

今度孫たちに話してあげてね
Posted by 文代 at 2011年04月22日 19:40
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